Switchはオワコンか? ―ぼくらの欲望とブルシットをめぐる短い思索

先日、中学生の甥っ子がゲームに夢中になっていたので何気なく声をかけてみた。

「おう、これニンテンドースイッチか?」

彼はテレビ画面から目を離さずにこう返してきた。

「そうそう。でもSwitch2が出るから、Switchなんてもうオワコンですよ」

オワコン。
こっちはスーパーファミコンのカセットに息を吹きかけて起動させ、ABボタンを親指の爪で連打していた世代ですよ?Switchがオワコンになるならスーファミなんて完全終了というか、化石じゃん。スーファミに心を躍らせていた若き日の自分の姿を思い出しながら苦笑してしまった。

でも、ふと考える。
中学生の甥っ子とおじさんのぼく。たかが二世代の違い。人間としての性能なんてほとんど変わらない。脳みそだってせいぜいSwitchとSwitch2のグラフィックの違い程度でしかないはずだ。なのに、彼にとってスーファミなんて古すぎて楽しめないし、Switchですら数年後には「なんか古くね?」って言われる運命にある。

進化してるのは技術じゃない。欲望のほうだ。

ぼくらの欲望は、毎年モデルチェンジする。

「これさえあれば大丈夫」と思って手に入れたものが、数カ月後には押し入れの肥やしになる。家電もガジェットも、そして仕事やステータスだってそうだ。飽きる。もっと欲しくなる。あの欲望の底なし具合は、ちょっと怖い。

アメリカの社会学者ソースティン・ヴェブレンは1899年に『有閑階級の理論』で「顕示的消費(見せびらかし消費)」という言葉を使った。100年以上も前に「人は必要だからではなく、見せびらかしたいからモノを買うんだよ」と喝破していたわけだ。Switchじゃダメ、Switch2でなきゃ。それも誰かに“見せびらかす”ために。

フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールはさらに踏み込んで「消費とは記号の消費だ」と言った。ブランドやガジェットは、機能よりも“意味”を消費する時代。ようするに「そのスマホ、何ができるの?」より「それ、最新?」のほうが重要になってしまうわけだ。

ぼくはよく「ぼくらは江戸時代のお殿様よりいい暮らしをしてるよね」と言う。

エアコンや電子レンジがある。風呂は毎日入れる。スマホで世界中のニュースが読めるし、音楽はタダで無限に聴ける。わからないことはAIが一瞬で答えてくれる。江戸時代どころかぼくの学生時代から考えても夢のような生活をしている。それなのに「なんか幸せじゃない」「もっといい生活がしたい」「新しいのを買いたい」「もっと稼がなきゃ」と追い立てられている。

経済学者のケインズは1930年に「技術が進めば、2030年には週15時間労働で十分な生活ができる」と予測した。でも、現実はどうだろう。15時間どころか、仕事に忙殺され、意味のない会議やメールのやり取りに時間を溶かし「とりあえず周囲と同じように」で過ごす毎日。ストレスに寝不足。どーいうことなのケインズ先生。

そんな現代人を見て、人類学者デヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』で「これは人類史上最大の茶番では?」と真顔で言ってのけた。彼は、意味のない仕事に多くの人が従事しながら「自分は役に立っている」と信じたいだけかもしれない…と指摘した。

さて、なんでこんなことブログに書いてるのかというと、ぼくもまたその“茶番”のど真ん中でくるくる踊っている一人だからだ。ちょっと思うことがあってもすぐに欲望に飲み込まれる。気を抜くと忘れる。すぐにブルシットな毎日が始まる。だからこそ、書いた。書いて記録して可視化することで、少しでも自分の立ち位置を確認したい。

甥っ子の「Switchはオワコン」発言は、ただのゲーム機の話じゃない。あれは人類が抱える“永遠に満たされないマインド”の、きわめて端的な表現だったのだと思う。「満足できない才能」って、いちばん人類を前に進めたけど、いちばん幸せから遠ざけたものかもしれない。

進化しているのは技術ではない。欲望のほうだ。そして欲望のゲームからぼくは降りたい。でも難しいよな。人類の本能だし、社会のルールだから。いや、それを認識しただけで前進か。でもまた忘れるんだろうな。

そういうことを、今日のぼくは考えていた。

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